文・WEBマガジンOTONAMIE 村山祐介
写真・井村義次
朝6時。名古屋駅から徒歩10分と都会の真ん中にある、柳橋中央市場は活気に満ちる。伊勢湾や三河湾を中心に全国から運ばれてきた獲れたての鮮魚は店から溢れ、ところ狭しと道端にまで並べられている。
そんな新鮮な魚たちはレトロな雰囲気の市場に彩りを与える。
あちらこちらで店員と客が親しげに交渉をしているなか、すし処君家の大将・山口和司さんも馴染みの店を回り品定めを行う。ヒカリモノならこの店、エビならここと、各店の特徴を見極めて仕入れる。そして週4日と足繫く通う理由は新鮮なネタを求めてはもちろんのこと、他のすし屋や市場の人との情報交換を行うため。
仕入れ中には頻繁に携帯で電話もかける。何を話していたのですか?と尋ねると、山口さんの出身地・港町紀伊長島(三重県紀北町)の魚屋に、現地の港での水揚げ具合について聞き、注文をしていたそうだ。
山口さんは店を回りながら、しきりに手書きのメモをチェックしている。メモには予約の状況が書かれていて、それに合わせて仕入れを行う。また常連客の好みそうな魚があれば買い付ける。約2時間で仕入れを終えると、これから車で移動してもうひとつの市場にも顔を出すという。そんな徹底したスタイルは、独立前に研鑽を重ねた旧東京大寿司(三重県津市)で学んだという。
山口さん:愛知と大阪で20年ほど修行をして、独立を視野に地元三重の寿司屋で働こうと思い、大寿司の門を叩きました。そこで驚いたんですよ。言い方は失礼ですが、三重は都会でもないのに、大寿司では見たこともないような高級なネタが飛ぶように売れていく。大寿司の大将は、毎日店を閉めたら名古屋に向かい、宿泊をして翌朝は柳橋で仕入れをしていました。今までに出会ったことのないタイプの寿司職人で、寿司を握り店を切り盛りするだけでなく、社会との接点を持って視野を広げていました。そして国内だけではなく世界にも目を向け行動をするなど、勉強になることも多かったので結局10年間勤めました。
寿司の歴史を振り返ると、握り寿司が考案されたのは江戸時代後期で所謂ファストフード的な立ち位置だった。今のような小ぶりな江戸前寿司になったのは大正時代とされている。そこから冷蔵庫の普及などで、ネタは増えて行った。そしてひと昔前まで寿司は今のような高級品ではなく、ふらっと店に立ち寄り、好みのネタを少しだけつまむような大衆の食であった。その後、経済の発展と職人の研鑽、世界からの評価などが相まって今は高級品となり、有名店ではおまかせのコースが主流になりつつある。
しかし君家では寿司の文化を意識しながら、今も客の好みに合わせて多品種のネタを仕入れる。
仕入れたネタに施す仕事にもこだわる。さばいている大トロは部位によって口に残る筋を取り除き、すっととける口溶けが味わえる極上の一貫に仕上げる。
山口さん:カウンターで常連さんの好みを知り、次に来られたときに何をお出ししようかと考えます。そうやってお客様に喜んでもらうことが嬉しくて、職人としてもひとつの楽しみなんです。
そんなフリースタイルの食文化には、相手の好みを知り、喜ばせようとする日本人らしい粋な精神があり、何物にも代えがたい口福感を覚える。粋な計らいこそ、行きつけの寿司屋を持つ大人の醍醐味なのだと思うと、自分の居場所を寿司屋のカウンターに求めたくなるのである。